マレーシア完全攻略【王国の歴史編】
この記事では、マレーシアの歴史を最短最速で駆け抜ける。歴史を知ることで、その国の「なぜ?」が見えてくる。歴史とはその国の全てである。国の成り立ちを理解することで、あなたにとってのマレーシアは更なる高みへ到達する。
■ 古代~13世紀:王国のはじまり
■ 西暦100年〜400年頃 ケダ王国がマレー半島北部に成立
マレー半島には、古代より複数の小規模な王国が存在した記録が残っている。なかでも後にケダ州となるケダ王国は、1世紀末〜2世紀頃には既に存在していた可能性があったと考えられており、現存するマレー半島最古の王国とされる。当時のマレー半島では、インドから伝来した仏教やヒンドゥー教が信仰されていた。
■ 1400年〜1511年:マラッカ王国の成立と繁栄
■ 1400年頃 スマトラ島出身のパラメスワラ王子がマラッカ王国を建国
スマトラ島(現インドネシア)出身の王子・パラメスワラは戦争に敗れて故郷を追われ、マラッカの地に到着。マラッカ王国を建国する。
マラッカはアジアの東西交易をつなぐマラッカ海峡の中継点に位置しており、その優れた立地を背景に急速に発展。インド・中国・アラブから多くの商人が集まり、わずか10年ほどで、東南アジア最大級の国際港市へと成長した。
マラッカ王国は、言語や宗教など後世のマレー国家群に大きな影響を与えたため、「マレーシアの原型」として歴史的に極めて重要な存在と位置づけられている。
■ 1410年頃 パラメスワラ王がイスラム教に改宗
これによりマラッカ王国はイスラム教王国としての性格を強め、イスラム教は、王権・法制度・教育にまで広く浸透していった。このイスラム化は、マレー半島のみならず、インドネシア諸島へも波及し、現在の東南アジアにおけるイスラム文化の広がりに大きく寄与した。
■ 1450年頃 マレーシアの英雄ハントゥアが親友ジェバットを討つ
マレーシアの国民的英雄とされるハントゥアは、マラッカ王国の国王に忠誠を誓った伝説的な戦士。王命と友情の狭間で悩んだ結果、国に反乱を起こした親友を討ったという話が有名。親友ジェバットが国王に反乱を起こしたのは、ハントゥアが冤罪で国王から死刑を宣告された事が原因であり、彼もまた正義の英雄として支持されている。
親友への思いから、国王への反乱を決意したジェバット。冤罪で死刑宣告をされたにも関わらず、国へ忠誠を固く誓い、国王の命で親友ジェバットを討ったハントゥア。
国へ忠義か、自らの正義か。
現代まで語り継がれるハントゥア物語の大きなテーマである。
伝承によればハントゥアは国王の命により、琉球(沖縄)へも使節として訪れたと言われている。
■ 1511~1824年:ヨーロッパ列強の支配
■ 1511年 ポルトガルがマラッカを占領し、マラッカ王国が滅亡
繁栄を続けていたマラッカ王国だったが、建国から100年程で世界史の大波に飲み込まれて崩壊することとなる。
マラッカ王国が成立して間も無く、ヨーロッパでは大航海時代が幕を開けていた。
地理的優位性により大航海時代の主役となったポルトガル・スペインは、新航路の開拓、植民地獲得、香辛料貿易の拡大などを目的として、世界各地に進出した。
大航海時代を牽引する大国が東南アジア最大級の国際港をいつまでも放置しておくはずもなく、大航海時代突入から100年の時を経てついにポルトガル艦隊がマラッカの地に上陸する。
ポルトガルは通商を試みるもマラッカ王国との交渉が決裂した為、その後武力行使に切り替えマラッカを占領。マラッカ王国の王族たちは各地へ散り、これに伴いマラッカ王国は111年の歴史に幕を下ろすこととなった。ここからヨーロッパによる植民地支配の歴史が始まる。
■ 1550年頃 ポルトガル人宣教師フランシスコ・ザビエルがマラッカを訪問
ザビエルはマラッカの地でヤジローという日本人に出会い、その運命的な出会いが彼を日本へと向かわせることとなる。
■ 1641年 オランダ東インド会社がポルトガルを撃退し、マラッカを占領
ポルトガルの植民地となってから150年後、オランダ東インド会社はイスラム教国家ジョホール王国(後のジョホール州)と同盟を組みポルトガルを撃破。マラッカの奪取に成功する。マラッカは以後183年間、オランダの植民地としての歴史も歩む。
■ 1786年 イギリスがケダ王国との交渉の末、ペナンを統治
マラッカ獲得に遅れをとったイギリスは、代替案としてケダ王国の港町であったペナンに目を付け、交渉の末統治権を獲得した。形式上はケダ王国からの租借であったが、途中からは完全にイギリスが主権を握っており実質的には植民地状態であった。
■ 1819年 イギリス東インド会社の行政官スタンフォード・ラッフルズが、ジョホール王国のシンガプーラ(後にシンガポールに改名)に上陸
■ 1824年 シンガポールがジョホール王国からイギリスに譲渡される
■ 1824年 マラッカがオランダからイギリスに譲渡される
以前からマレー半島に目をつけていたイギリスは、1826年にペナン・シンガポール・マラッカを統合して海峡植民地とし、通商・行政の拠点としてマレー半島全体への影響力を拡大していく。この頃からヨーロッパでは、マレー半島を「マラヤ」と呼ぶようになる。
■ 1846年 イギリスがラブアン島を植民地化。
イギリスは海賊の取り締まりと中国・ボルネオ航路の補給基地確保を目的に、ブルネイからラブアン島の割譲を受けた。これによりラブアンはイギリスの直轄植民地となり、後に北ボルネオの支配基盤の一部となる。
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その後、イギリスはマレー半島に存在した複数のマレー系王国を間接的に支配・介入し始め、マラヤ全体が徐々にイギリス植民地構造の中に組み込まれていくことになる。現在マレーシアで英語が話されているのは、この時代から始まったイギリスによる支配の影響である。
■ 19世紀後半:クアラルンプールの誕生と発展
■ 1857年 中国系鉱夫らがゴンバック川とクラン川の合流点に採掘拠点を築く
マラッカの北、18世紀に建国されたセランゴール王国は、19世紀に入るとスズ鉱山の開発により経済的に発展を遂げる。特にクラン渓谷一帯でスズ産出が活発化したことから、多数の中国系鉱夫が導入されるようになった。
この時、中国系鉱夫らがゴンバック川とクラン川の合流地点に築いた採掘拠点こそ、クアラルンプール(マレー語で泥川の合流地点の意味)の起源である。当初は湿地とジャングルに囲まれた過酷な地だったが、資源と立地の利便性から次第に人々が集まり、町として発展していった。
■ 1880年 セランゴール王国の行政首都がクアラルンプールに移転
セランゴール王国の首都クランから、行政首都がクアラルンプールに移転。以降、クアラルンプールはイギリスの保護下で都市整備が進められ、官庁、警察、鉄道施設などが次々と設置されていった。
■ 1896年 イギリスの主導でペラ・セランゴール・パハン・ヌグリ・スンビランの4州が「マレー連邦」として統合
マレー連邦の首都としてクアラルンプールが選定され、同地の発展はさらに加速。中国系・インド系・マレー系の多民族が共存する商業都市へと成長していった。
■ 1942〜1945年:第二次世界大戦と日本占領期
■ 1941年12月 日本軍が北部コタバルに上陸し、マラヤ侵攻開始
第二次世界大戦中に日本軍はマレー半島北部のコタバルに上陸し、イギリス領マラヤへの侵攻を開始する。
■ 1942年1月 日本軍がクアラルンプールを占領、続いてシンガポールも陥落
イギリス軍を圧倒しながら南下し、1942年1月にはクアラルンプールを占領、続いてシンガポールも陥落する。ここで400年以上続いたヨーロッパによる植民地支配が一時的に途絶えることとなる。
この間、マラヤ全域は日本軍の軍政下に置かれ、約3年半にわたって占領統治が続く。日本軍は、現地マレー人に対しては「アジア人によるアジアの統治」を掲げて懐柔を図る一方、反日的と見なされた中華系住民に対しては厳しい弾圧・虐殺を行ったと記録されている。
日本軍の支配はわずか3年半だったが、「無敵と信じ込まれていた白人神話の崩壊」や「日本軍による統治の厳しさ」が、マレーシア人の独立への意欲をより一層高める契機となった。
■ 1945年 日本敗戦により、マラヤは再びイギリス統治下へ
終戦後の1945年、連合国の勝利により日本軍は降伏し、マラヤは再びイギリスの支配下に戻される。
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■ 1946〜1957年:マラヤ連合とマラヤ連邦、そして独立へ
■ 1946年 イギリスが中央集権化を図り「マラヤ連合」を提案
これはマレー半島各地の王国を国家の構成州としてすべてイギリス王室の直轄領とする内容で、各国の国王の統治権を大幅に縮小するものであったため、マレー系住民の強い反発を招いた。
■ 1948年 反発を受けて「マラヤ連邦」が新設
これにより、各国の国王の地位は一定程度保持され、各州の自治も維持されることとなった。
マラヤ連邦を構成した11州:
王国:ジョホール、ケダ、ケランタン、トレンガヌ、パハン、ペラ、セランゴール、ヌグリ・スンビラン、プルリス
植民地:英国領マラッカ、英国領ペナン
国旗の星の角の数と、赤白のストライプはそれぞれ州を表している。
■ 1957年8月31日 マラヤ連邦がイギリスから独立
第二次世界大戦による英国本国の疲弊、民族融和への課題、経済再建の必要などを背景に、イギリスは段階的に植民地放棄を進め、1957年8月31日、マラヤ連邦はついにイギリスからの独立を果たす。
独立宣言はクアラルンプールのムルデカ広場で行われた。
(この時点で、マレー半島ではシンガポールのみがイギリス領)
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■ 1963〜1965年:マレーシアの成立とシンガポールの離脱
■ 1963年 シンガポール、ボルネオ島のサバ、サラワクがマラヤ連邦に加わり「マレーシア」が成立
マレーシアの成立をもって、イギリスはマレー半島から完全に撤退した。
マレーシアを構成した14州:
ジョホール州、ケダ州、ケランタン州、トレンガヌ州、パハン州、ペラ州、セランゴール州、ヌグリ・スンビラン州、プルリス州、マラッカ州、ペナン州、サバ州、シンガポール州
ラブアン島もこの時にサバ州の一部としてマレーシアに加入。
マレーシア国旗。マラヤ連邦の国旗に、サバ州、サラワク州、シンガポール州の分の星の角とストライプが追加された。
■ 1965年 シンガポールがマレーシアから分離・独立
原住民であるマレー人の優遇政策を掲げるマレーシア政府と、全国民平等を主張する華人多数のシンガポール州の間で対立は次第に激化。1964年には民族暴動が発生し、最終的にマレーシア政府はシンガポール州を連邦から追放することを決定した。
マレーシア国旗は州の数を表している為、国旗のデザインを変更する必要性も考えられたが、シンガポール州のストライプを首都クアラルンプール(州ではない)に置き換えて再解釈することで、マレーシア成立から現在まで同じ国旗デザインを維持している。
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■ 現代:首都機能の整備と都市圏の拡大
■ 1974年 クアラルンプールがセランゴール州から分離し、連邦直轄領となる
セランゴール州の州都でありながら、国家の首都でもあったクアラルンプールは、連邦政府と州政府の権限が重なり合い行政上の混乱が起きやすかった。そのため、マレーシア政府は首都機能を円滑に運営するため、クアラルンプールを州から切り離し、国が直接統治する形に改めた。
■ 1981年 マハティール・モハマドが第4代首相に就任
マハティール・モハマド元首相は、マレーシアの歴史上最も有名な人物の一人。元医師。ルックイースト政策で日本や韓国の経済発展を参考に、国民の意識改革や技術習得、経済成長を目指した。就任から22年後の2003年までマレーシアの首相として国の発展に尽力した。また、2018年には首相として再就任している。まさに近代マレーシアの父と言える存在。
■ 1984年 ラブアン島がサバ州から分離し、連邦直轄領となる
マレーシア政府は、ラブアンを外国の会社やお金を集める特別な経済地域(国際金融センター)にしたいと考えた。そのため、州の一部ではなく国が直接管理できる特別な地域にして、自由にルールを作れるようにした。
■ 1998年 ペトロナス・ツインタワー完成
■ 2001年 新行政都市プトラジャヤが誕生
クアラルンプールの行政負担を目的に、連邦政府機関を順次プトラジャヤへ移転。
■ 2018年 マハティール・モハマドが第7代首相として世界最高齢首相で再就任
当時のマハティール首相の年齢は92歳。この年齢の人物が選挙で勝利し国家指導者になった例は世界でもほぼない。2020年に政党内の混乱の責任を取る形で辞表を提出。
■ 2023年 世界で2番目に高いビルであるムルデカ118が完成